シェア食の原点

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ビフォーアフターという言葉がありますが、何か変化が起きると以前どうしていたのか、意外と早く忘れてしまうということがあります。人の記憶は思っているよりも薄れがちで、よくあることでは、新しいビルが建つとそこに以前何があったか分からないなんてことありますね。

毎日通っているような道でも、いくら頭をひねっても、ここに何があったか全く思い出せない!ということはざらにあります。

人の意識は自分で思っているよりも心もとなく不確実なのでしょう。

昨年の正月は、新型コロナの存在をたしかまだ認知していませんでした。この後一年間がコロナで染まってしまうと知らずに、いつも通りに両親の家に集まり、おせちとお屠蘇で元旦を祝いました。

京ニンジンが柔らかくて溶けてしまい、花麩をあわてて追加したお煮しめ。

重箱を開けて、皆でおせちを分け合って食べてワイワイして、お屠蘇を一つの盃で回し飲むということも普通のこととしてやっていました。

“神人共食”という言葉があります。

これは神様にお供えした供物の食べ物をさげて、皆でシェアして頂く食の場のことで、日本の祝いの食卓は、意識せずとも、この考え方が原点にあるんじゃないかと思います。これによって、神様の気を自身に取り込みエネルギーを分けてもらう、福を呼び込むというような思想ですが、お気づきかと思いますがこれはシェアが大事な要素で、神様とのシェア、食卓を囲む者たちとのシェア、それがなければ成立しない場面なのですよね。しかもしずしずとは食べない。呑んで歌って陽気に頂くことで、さらに活力が生み出されて共有されてエネルギーとなるというのが、日本人が昔からやってきた“神人共食”なのだろうと思います。まぁ個人的には、酔っぱらいのおじさんは昔から苦手なのですが。

しかしコロナ禍の今、食卓を囲んでわいわいシェアするのは最もやってはいけない事になりました。

新しい生活様式の中で、食卓でのシェアが避けるべき事として定着したら、一生の中に様々ある祝いの食の場面も相当違ってくるのかなと思うし、人の意識の中に自然と刷り込まれてきた「神人共食」のような意識も薄れていくのかもしれません。

私は無宗教で仏教も神道も信仰していないので、厳密な意味での“神人共食”の意識が薄れても困るわけじゃないのですが、文化的な背景として仏教にも神道にもなじんでいるので、そういう自然と身に付いた感覚までも薄れゆくと、人の温かみが薄らぐようで寂しくなります。

このコロナ禍で一番影響を受けている生活シーンは、家庭でも商売でも紛れもなく食卓ではないかと思います。私はいわゆる美食家ではなくて、食にまつわる様々な文化に愛着する者として、食文化が薄く貧しくなっていくとしたらちょっと辛いです。

こんな中で何かできることはないか、人の気持ちに楽しい食の場面を提案していけるように考えていければ良いなと思う新春です。

今年もThinkEATLABをどうぞよろしくお願いします。